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大竹市の歴史 

(近隣地域の出来事も載せてあります)  

「大竹及び近隣地域の歴史年表」の順番に進めて行きます。赤字のところが歴史年表の部分です。

では、遥か昔の話から・・・

2万年前(氷河期)  現在の海水面より100130メートル低い     

           瀬戸内海出来ていない、北海道陸続き→動物、人間渡る 

現在地球は、二酸化炭素の増加やオゾン層の破壊などの影響で温暖化が進み、各地の氷河が溶け出し、

海面は上昇していると言われています。

それでは古代はどうでしょうか?2万年前の氷河期が最近では最も海水面が低かったと言われており、

現在の海水面より100130メートル低かったと言われています。そうすると瀬戸内海は出来ておらず、

また北海道は大陸と陸続きであったろうと思われます。

なのでいろいろな動物が大陸から次々と渡り、

さらにこれらの動物を追って人々もわたってきたであろうと推測できます。

1万年前(縄文時代) 温暖化→海水面上昇 

5千〜        最も海水面高い(現在より3メートル高い)

6千年前       厳島、現在の満潮面より高い位置に海水が浸食により作った跡

その後氷河期が終わり気候の温暖化が進むと、海水面はどんどん高くなり最も高くなったのが

縄文前期の時代で5,000〜6,000年前です。

その頃は現在の海水面より3メートルぐらい高かったと考えられています。

その証拠として厳島などの海岸で現在の満潮面より高い所に

侵食により作られた跡が見られることで解ります。

ちょっとここで順番は前後しますが、「大竹及び近隣地域の歴史年表」一番始め。

3万年前〜2千年前  冠遺跡群 安山岩材料 中国、四国地方で出土→生活圏を見てみましょう。

吉和の冠遺跡群は冠高原一帯に広がっており、

この付近にある安山岩を利用して石器を作った跡が残っています。

この冠産の安山岩を使って作った石器は四国の遺跡でも見つかっており氷河期時代、

瀬戸内海は草原の盆地で、多くの動物の楽園地で獲物を追って

広範囲にこの石器で狩をしたであろうことが想像されます。

紀元前500年    日本に米作り伝わる

紀元前300年    廿日市市丸子山遺跡他→稲作の時代→集落(ムラ)が出来る

九州北部から徐々に稲作文化が伝わり、この頃の遺跡として他に大朝町、千代田町などでも見つかっており、

集落が出来ると共に墓の形態から階級差が生まれつつあったことが推測されています。

3世紀(弥生時代)  廿日市市高尾山遺跡(高地性集落)食糧めぐる争い→クニの統合

この遺跡は極楽寺山から南に向かって延びる標高260メートルのところにあります。

このような遺跡はその立地から「高地性集落」と呼ばれています。

高尾山遺跡の周辺には稲作や畑作に適した場所を求めることは困難と考えられますが、

瀬戸内海側に位置し、標高260メートルの丘陵上にあることから、広島湾岸はもちろんのこと、

遠くまで一望できる場所に立地していることが注目され、防御を第一に考えた集落であることも推測されます。

このような遺跡として他には広島市西区の西山遺跡もあります。

この時代は中国の史書に見られる「倭国大乱」にあたる時期で「クニ」と「クニ」がまとまり、卑弥呼

を共通の女王として立てることにより、いったん安定するまでの過程において、広域的に軍事的な緊張

が高まった時期であり、こうした時期に、このような防御的な性格の強い集落が出現したと考えられて

います。弥生時代には、本格的に食糧生産が開始されると共に、物資を生産、保有することに伴って、

争いの絶えない時代に入ったことがうかがえます。

5世紀(古墳時代)  廿日市市高砂古墳→この地域一帯を支配する豪族が生まれる

この時代は古墳が多数確認されており、廿日市市高砂古墳の他に、千代田町中出勝負峠(なかいでしょ

うぶだお)古墳群・塚迫古墳群・蔵迫古墳群・大朝町登古墳・東山古墳、加計町津波丸山古墳などその

他にも確認されており、これらの古墳から狭い地域のみならず、広島湾西部地域にも影響力を持った、

有力者も眠っていたと考えられています。

?        大和朝廷の「オオキミ」の下「クニノミヤツコ」(国造) 

古墳時代に各地で形成された大小さまざまな古墳と、そこにまつられた数々の副葬品は、

それぞれの地域における有力豪族の盛衰を物語ると共に、

それまでのいくつかのムラが統合されて小さなクニとなり、さらにいくつかのクニが統合されて

より大きなクニへと統合されていった様子を伝えています。

これらのクニも更に統合を繰り返し、やがて大和朝廷の下に統一されていきます。

「阿岐国造」(アギクニノミヤツコ)中央集権国家→主要官道山陽道 遠管駅(おくだ)(小方)

速谷神社 安芸国造の祖霊を祭神とする

734年(奈良時代)  大竹川をもって安芸(小野川)・周防(すおう)(小瀬川)      

両国の国境と定められた(物資輸送の通行税をめぐり紛争)

?          佐伯郡 太田川〜小瀬川                  

これら各地のクニの首長たちは、大和朝廷に帰属した後は、

大和朝廷の「オオキミ」の下で「クニノミヤツコ」と呼ばれました。

平安時代初期に編纂された「旧事本紀」巻10の「国造本紀」に「阿岐国造」の名が見え、

これが安芸地方の国造と考えられており、その唯一の記録で、

その中で阿岐国造の祖霊を祭神として祀るのが速谷神社とあり、

その後、安芸国で最高の社格が認められます。

安芸国がいつ頃成立したかについては明らかではありませんが、

大化の改新(645年)によって国・郡・里の制度が確立するかなり以前から、

阿岐国造(アギクニノミヤツコ)が支配する「阿岐国」が成立していたものと考えられます。

しかしその頃はまだ国境も定かではなく、その後、国の制度が確立して諸国の境界が定められますが、

大竹川をもって安芸・周防両国の国境と定められたのは734年9月のことです。

この川は中世の資料では「大滝」と記されていますが、広島県側では小野川、山口県側では小瀬川

と呼ばれており、物資輸送の通行税をめぐり、両国の間で紛争が起こっていました。

また、佐伯郡の定義とされる「サエギ」(塞ぎ)は、「外敵の侵略をさえぎる」という意味で、

西からの侵略を防ぐ為に安芸国の西端に設定されたものと考えられ、

738年の「周防国正税帳」には佐伯郡に軍団が置かれていたことが書かれています。

また古代の佐伯郡の軍域は太田川から小瀬川に至る広範囲なものでした。

ところで大和朝廷が中央集権国家としてその支配を確立する為には、主要管道の整備は必須条件で、

古代山陽道は九州の大宰府に通じる為重要で、小方にも遠管駅(おくだ)が設けられました。

1146年(平安時代)平清盛が安芸守(あきのかみ)となる→厳島神社信仰

先ほど、「速谷神社が安芸国で最高の社格が認めた」と言いましたが、平安時代に入ると厳島神社が平

家一門の信仰を得て、厳島神社が「安芸一宮」、速谷神社は「安芸二宮」と称されるようになります。

12世紀中頃     己斐以西が佐西郡(厳島神社の支配下)、以東が佐東郡

この頃から己斐より西が佐西郡、東が佐東郡に分かれ、佐西郡は厳島神社の支配下にあったので

「神領」と呼ばれました。

厳島神社神主佐伯影弘→厳島社領の支配下→大竹・小方

さて、この平安時代は平清盛のもと、厳島神社の神主である佐伯影弘が厳島社領を拡大し、

大竹・小方もそのひとつでした。

1221年(鎌倉時代)承久(じょうきゅう)の乱 藤原親実(ちかざね)厳島神主となる

この頃、いろいろと東西に分裂して抗争が起こりますが、中心はやはり厳島神社で厳島は島全体が神聖

な地とされ、神社に使える人々も、神事などで島内に一時的に滞在することはあっても、生活の本拠は

対岸陸地(現在の廿日市)に置いていました。なお西側の抗争の拠点は廿日市の桜尾城で神主家もここ

を住家としていました。

1336年(室町時代)〜 宮廿日市 

  宮島(自給できない為廿日市に依存)廿日市(厳島神社の門前として発展)

やがて神社に仕える人々も厳島定住が進み、さらに商人や職人までも島内に定住するようになると、厳

島に町が形成されます。一方、対岸に廿日市の町が形成されたのも、室町時代のことです。廿日市とい

う地名が初めて史料上に登場するのは室町時代中頃のことで、室町時代の初め頃は「佐西の浦」と呼ば

れ、神社に仕える人々や参拝者がそこから厳島に渡り、厳島と対岸とを結ぶ窓口として機能していたと

考えられます。

その後、厳島と廿日市はあわせて「宮廿日市」と呼ばれるようになります。厳島の市では、博多や堺の

商人などが扱う高価な商品や輸入品が売りさばかれ、廿日市では日常生活物資や塩・紙・材木などの地

域特産物が売られたと思われます。この二つの町は日常的に緊密な関係にあり、食料などを自給できな

い厳島の人々の生活は、廿日市から運ばれる物資に依存しており、逆に廿日市は、厳島神社の門前とい

う立地を生かして、発展を遂げることができました。

1541年      藤原厳島神主家滅亡

さて、藤原親実(ちかざね)以来の厳島神主家は、武士としての性格を持っており、佐西郡を中心に

安芸国内の各地に散在する社領をいかにして維持するかということでした。

佐東郡内は武田氏、他の社領は毛利・宍戸・平賀氏などに押領されていました。

そこで藤原家は、周防国の大内氏と積極的に結びつくようになり、

大内氏もまた周防国から安芸国の入り口にあたる佐西郡を味方に付けておくことは、

政治的・軍事的に大きな意味を持っていました。

そして、病死した神主、藤原興親(おきちか)の後、社領をめぐって争いが起こりますが

結局大内氏が勝利を収めます。

 

さて、この後は大竹の歴史において重要なポイントとなる、

亀居城築城、第二次長州戦争などがあり、また手漉き和紙も始まっています。

これらは最後で少し詳しく説明してありますので、

そういうことがあったということを念頭に入れていただき、1664年まで飛びます。

1555年      厳島合戦で毛利元就勝利→中国地方の大半を支配する

1573年      この頃から大竹方面で紙漉きが始まると伝える

1587年(安土桃山時代) 毛利輝元、豊臣秀吉の廿日市止宿に際して宿所、道の整備

1600年      関が原の合戦→毛利氏が周防、長門に押し込められる

           安芸国に福島正則入部→安芸、周防国境は軍事的境界線となる

           西国街道(己斐村〜木野村)など主要交通路や運輸施設の整備

1603年(江戸時代)亀居城の築城が始まる

1611年      築城後3年で破却

1619年      福島氏の統治18年で終わる→浅野氏の家臣上田重安(しげやす)小方に配備

1633年      幕府巡見使(じゅんけんし)の巡察で、交通上の諸制度や施設の整備が大きく前進

           西国街道、廿日市、玖波村に宿駅

1655年      大竹、和木が大乱闘を起こす

1664年       佐西郡→佐伯郡

佐東郡が沼田郡と改名したのに対し、佐西郡は佐伯郡の古称に復しました。

1752年       大竹、和木が大乱闘を起こす

1802年       芸防境界確定し、境界論争終わる

1866年       第二次長州戦争大竹口の戦い戦端、多くの紙漉き農家焼失

1872年(明治時代) 紙の自由売買が認められ専売制の終焉→粗製濫造

1873年       大竹各地に小学校が出来る(寺子屋から小学校へ)

明治政府は1872年(明治5年)に「学制」を発布し、

広島県は翌年寺小屋に変わり小学校が設置されました。

しかし、実績は上がらず、その要因として、教育の重要性に対する理解不足に加え、

学齢期児童の労働力が奪われること、月謝の負担に耐えられないことなど、経済的背景がありました。

1881年       紙質審査の為、大竹会社設立

1889年       大日本帝国憲法発布。市町村制が施行され、

            大竹村、油見村、小方村、玖波村、大栗林村などとなる

1897年       山陽鉄道広島−徳山間が開通

1910年       大竹が町制施行する。

            大竹町製紙組合設立→技術の改良、品質の改善、生産能率の向上が図られる

1912年(大正時代) 宮島口―大竹間に乗合馬車が開通する

1920年       廿日市に初めて自動車が現れる

1922年       地御前で牡蠣の養殖が始まる

1924年       草津―廿日市間に電車が開通する

大正時代には近代文明がどんどん出てきています。ところが・・・

1931年(昭和時代) 満州事変起こる

1937年       日中戦争起こる

1933年       小方村に新興人絹(しんこうじんけん)叶i出

1941年       太平洋戦争始まる。大竹に大竹海兵団、大竹潜水学校(1943年)などが出来、

            海軍基地の町となる

満州事変、日中戦争、太平洋戦争までの一連の戦争を総称して15年戦争といいます。15年に及ぶ戦

争の進展に伴い、国民は戦争に動員され、生活は軍事優先の下、ぎりぎりまで切り詰められました。

1939年には海軍において、新兵教育の為の海兵団や潜水学校の拡張計画が浮上し、いくつかの候補地

の中で大竹が選定され、1941年に大竹海兵団、1943年には海軍潜水学校が発足しました。

1945年       終戦。広島に原爆が投下される。旧大竹海兵団内に引揚援護局が設置される。

太平洋戦争は1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦敗北を機に戦局が日本に不利となり、同19

年アメリカはマリアナ諸島にB29の基地を設置、翌20年3月以降日本の主要都市を空襲、昭和20年

8月6日原爆投下。第二次世界大戦の終結によって海外在留の日本の軍人などの帰還問題が生じ、これ

らの総数は660万人以上に達しており、当初、この業務は陸海軍省の廃止と共に設置された陸軍省の

後身である第一復員省、海軍省の後身である第二復員省と厚生省によって個別に進められていましたが

その後、厚生省内に引揚援護課が設置されて、業務は一元的に行われるようになりました。引き上げに

10の港があてられましたが、大竹港も上陸港に指定されて、昭和20年12月、旧大竹海兵団内に

大竹地方引揚援護局が設けられました。大竹港からの上陸人員は41万783人を数え、これは全国総

引揚者数の約6.8%にあたり、主に南方方面からの引揚者が多く占めていました。これより先に呉海軍

病院は旧大竹潜水学校内に移転され、厚生省に移管されて国立大竹病院として発足していたので、入院

を要する患者は直ちに収容されました。その数は大竹地区引揚者総数の4.8%にあたる1万8900人

にのぼりました。

また、すでに戦時中から進行していたインフレーションは、敗戦を機に一気に悪化し、戦時統制がゆる

み、貨幣乱発、工業生産の停滞や農業生産の激減、空襲の被害や海上輸送の途絶などと相まって、物価

は急騰し、天候不順、枕崎台風による被害もあって、食糧危機も深刻の度を増し、加えて復員、引き揚

げによって人口は増大、国民生活は破壊されました。

こうしたなか、日本を占領したGHQは日本の非軍事化と民主化の政策を推進しました。

女性の解放、労働組合結成の奨励、教育の民主化、専制政治の廃止、経済の民主化などがその内容です。

1948年       栗谷蛇喰岩が県天然記念物の指定を受ける

ということですね。

1954年       大竹市が市制施行する

2004年は大竹市制50周年です。

1956年       玖波発電所(発電用水の還元)完成

1958年       大竹が三菱ボンネル、日本紙業を誘致

1961年       大竹が三井石油、三井ポリケミカル、大日本化成、三井化学を誘致

1964年       小瀬川ダム完成

さてここで、臨海工業都市として発展してきた大竹の歴史を振り返ってみたいと思います。

水についてみてみますと、古くから紙産業が盛んで、さらに、1933年(昭和8年)新興人絹鰍ェ進

出してきたのも、小瀬川の水が良質で豊富であったからです。さらに、1956年(昭和31年)の玖

波発電所、1964年(昭和39年)の小瀬川ダムの完成のより、用水が新たに確保されました。

次に工業用地としては、沿岸部にあった第二次大戦中の海軍施設跡の一部に設置されていた国立病院、

学校などを移転すれば広大な用地が確保でき、玖波地区に干拓事業が進められていた明治新開も工業用

地に転用が可能でした。

さらに輸送条件は、国鉄、山陽本線、一級国道2号線が並行して通り、鉄道、自動車輸送共に便利で、

その上、輸送費の安い海運も利用できるということが上げられます。

さらに、労働力の面でも、大竹市周辺で1時間以内に通勤可能な地域の人口は10万人に及びました。

以上が企業誘致前の主な立地条件です。

また、政治的な側面からみてみますと、1954年(昭和29年)に大竹市制が施行されて以来、住民

の大多数は企業誘致をして、産業振興と財政力強化を図る施策に強調しました。そうした世論を背景に

市の企業誘致は進められ、広島県もまた県西部の重要な工業拠点として育成しようとしました。

一方、朝鮮動乱の特需景気で立ち直りを見せた日本経済は、昭和30年代に国際的好況を背景にいっそ

う発展し、近代的化学工業立地の諸条件を備えた大竹市へ大企業が進出する機運はいよいよ高まります。

そこで、市は新開地にあった学校・病院などの移転や駐留軍接収地の返還運動を起こし、国・県の協力

を求めながら企業誘致に疾走しました。そして1958年(昭和33年)に三菱ボンネル・日本紙業の

誘致に成功し、またその頃、和木・岩国地区の旧陸軍燃料廠(しょう)跡に三井石油化学岩国工場の建

設が進み、興亜石油・三井石油化学を中核とする石油化学コンビナートの建設を和木・岩国・大竹地区

に進める計画が具体化されることとなりました。そこで、大竹は国・県の援助を得て新開地内にある諸

施設の返還などを実現し、築調された明治新開を工業用地として確保。さらに工業用水確保の措置も講

じて、受け入れ体制の整備を急ぎました。

こうして、1961年(昭和36年)に三井石油・三井ポリケミカル・大日本化成・三井化学など三井

系4社の誘致が決まり、大竹市域は石油化学コンビナートの基地として発展し、工業生産額は1965

年(昭和40年)に596億7500万円に達し、広島県全製造業生産額の7.1%を占め、広島・呉両

市に次いで第3位になり、その結果、大竹市は和木・岩国地区と共に瀬戸内海臨海工業地帯の重要な一

環として注目されるようになりました。

1990年(平成時代) 広島・岩国道路(廿日市―大竹)が開通する

1993年       山陽自動車道が全通する

1996年       原爆ドーム・厳島神社がユネスコの世界遺産として登録される

1999年       瀬戸内しまなみ海道が開通する

以上、大竹市の成り立ちを近隣地域との関わりを交えながら説明しました。

最後に、大竹の成り立ちに置いて重要と思われるポイントを

「小瀬川をめぐる攻防の歴史」「大竹和紙の歴史」と題して説明します。

 

小瀬川をめぐる攻防の歴史 

  さて、1600年の関が原の戦いで負けた西軍の毛利氏は周防、長門に押し込められ、東軍の福島氏、次いで浅野氏が安芸・備後を統治するようになり、その為、安芸、周防の境界線である小瀬川は両勢力の境界線となり、両国の利害が衝突する度に争われるようになりました。

この国境のうち頻繁に大きく争われたのは大竹村、和木村の境界でした。「古来大竹村は海に面して山がなく、和木村は海がなく山を有す、したがって両村はともに無き所を補い来た」と『国郡誌』にあるように、もともと大竹磯は大竹・和木・関ケ浜諸村の入会地として利用されていました。

ところが 1611年、大竹村民が関ケ浜・和木両村の山に入ることを差し止められ、大竹村民もその腹いせに、両村民が大竹磯に入ることを妨害するようになりました。これに対して周防側は当然対決の姿勢を示しました。当時小瀬川一帯は広大な干潟(ひがた)を有し、両藩ともこの干潟を干拓しようとしていました。それには国境の確定が先決でしたが、境の決め方一つで干拓地の広さに違いが生じ、お互いの利害を大きく左右するので、容易に解決することができず、事あるごとに主張しあい、衝突を繰り返していました。また、当時の小瀬川筋はいく筋にも分流し、洪水のたびに川筋が変わるので本流を決めることが出来ませんでした。

国境の争いは絶え間なく繰り返されていましたが、1655年、ついに大惨事が起きました。与三野地(よさのじ)開きで大普請(だいふしん)を始めたことに端を発し、大竹村民180人はそれを阻止しようとして乱入、大乱闘になり、大竹村民は死者5人・負傷者37人を出し、これに対し和木村側は荷担した瀬田村(せたむら)庄屋・尾瀬村庄屋が斬られたり、その他多くの負傷者を出しました。その後1752年にも大乱闘があり、和木村側で二人死亡し双方とも多数の負傷者を出しました。

以上のように両村は境界争いに何度も血を流してきましたが、これを解決する為には明確不動の国境確定以外に途はありませんでした。そこで安芸・周防両藩は1802年、紛争の中心であった与三野地の大部分を削除して一本の川として、境界水路を大きく掘割り、水路の中央をもって境界としました。また磯別けも行い、両村は磯の境界線より双方とも30間(約54.6メートル)ずつはなして杭打ちすることにし、それぞれの利用範囲を確定しました。こうして、長い間続いた境界論争もようやく解決されることになりました。

しかし、国境であるが故の争いは再び、長州戦争という幕府対改革派の争いという形で行われることとなります。1864年に起こった第一次長州戦争は幕府に対する長州藩の謝罪によりひとまず収束されましたが、高杉晋作らのもとに結集した改革派は藩政権を奪回し、さらに対立していた薩摩藩との提携も進んで、戦力強化を実現しました。

この動静を察知した幕府は、江戸を発って大坂に本営を進め1866年に広島に到着しました。

こうして、第二次長州戦争の戦端が開かれたのは6月14日明け方のことです。幕府側の彦根軍は岩国への追手として小瀬川西岸の長州勢と対峙(たいじ)。前夜、大竹側よりの大砲3発に長州勢が答砲。夜明けとともに大竹村沿岸より和木村の人家へ向けての砲撃で、前進が開始されました。

近代的な装備に努めた長州軍を前にして、彦根軍の先陣の中から封書を差し上げた使番ら2名が川の中央まで押し渡った時、堤防の内より岩国軍がいっせいに小銃を撃ちかけ、対岸一帯からも大砲小銃が激しく火を吹きました。両名は倒れ、予想外の反撃に彦根軍はやむなく後退しました。一方、幕府側の高田軍は苦の坂周辺に軍隊を展開しましたが、河を渡って攻め上がってきた長州軍はたちまちにして苦の坂を制圧し、大竹村に攻め入って彦根軍の側面を突いたため、幕府側の高田・彦根勢は陸地伝いに敗走、一部は船で海上を退却しました。

玖波に駐屯していた彦根軍主力は、さらに攻め寄せる長州軍との間に激しい砲火を交えましたが戦況は思わしくなく、彦根藩主伊井掃部頭(かもんのかみ)も手勢を連れ船30余隻に分乗して広島に向かい、残る軍勢は四十八坂を越えて大野へと退きました。

大野には紀州や美濃大垣の軍勢が陣地を構築して長州軍に応酬したので、これ以降は主として本道の四十八坂をめぐっての攻防に加えて、松ヶ原からの間道による奇襲を交えながらの戦況は一進一退を繰り返すこととなりました。

この間、大竹・油見・小方・黒川・玖波一帯に及ぶ被害は大きく、家屋焼失1734件、被害を受けた人々は8996人にのぼりました。

その後も戦いは続きましたが、将軍家茂(いえもち)の死により双方に休戦の機運が高まり、9月2日、厳島大願時において休戦協定が成立しました。

 

   

       大竹和紙の歴史  

1555年、厳島合戦で毛利元就が勝利し、中国地方の大半を支配し始めた、その後、1573年頃大竹に和紙の製法が伝えられ、生産がはじまりました。

また、1615年、伊予の国、現在の(愛媛県)から製紙の技法を伝えられたといわれています。

県境を流れる、小瀬川沿いの村に和紙を作る家が、多くありました。それは山に近いこの土地が原料のこうぞや、きれいな水に恵まれていたことと、田畑が少なくないので暮らしを支える仕事が必要だったようです。

大竹では、ちり紙が、もっとも多く生産されていました。江戸時代には藩専売制のもとで生産されていましたが、専売制の強化はやがて農民の利害と対立を引き起こし様々な抵抗運動が起こり、その結果農民の生産意欲は失われ、和紙の生産高は減少していきました。さらに1866年の第二次長州戦争で多くの紙漉き農家が焼失、和紙生産に壊滅的な打撃を与えました。そして明治維新を迎えると、明治5年(1872)和紙の専売制が廃止され販売などが自由になりました。しかし、紙質の低下が起こり、販路は一時縮小されました。そのため明治14年には、紙質審査のため大竹会社、同43年には大竹町製紙組合が設立されるなど、技術の改良、品質の改善、生産能率の向上などが計られました。

その後手漉き和紙は、改良技術の導入に加え、日清、日露戦争を背景とした経済状況、文化の発達などに伴う需要の増加により、第一次世界大戦あたりまでは生産が増加していましたが、第一次世界大戦後には、西洋紙の利用、障子に替わるガラス戸の普及などにより需要が減退、斜陽化を余儀なくされました。

第二次世界大戦後、和紙の生産も機械化が進み、当然ながら機械紙に押され、手漉き和紙は減退の一途をたどり、大竹では、和紙の生産は1軒を残すのみとなりました。

その後、昭和58年に当地の大村調一氏が県の無形文化財の認定を受け、平成5年3月16日に、大村調一氏が、死去され、指定は解除されましたが、この間、手漉き和紙を保存、継承するため昭和63年には、大竹手漉き和紙保存会を発足し、伝統工芸品としての手漉き和紙の普及、発展を図り、地域振興の一環として原材料等も自給自足した組織作りに取り組み、大竹市の伝統文化としての手漉き和紙の伝承を目的として、今日にいたっています。

 

参考文献―「廿日市・大竹・厳島の歴史」 郷土出版社 

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